no more tears

7=元のお類の待っていた処
 お類と伊吉のラブシーンです。
T「あんたとの事兄さんに話したら」
 とお類です。伊吉が、
T「許して下さいましたか?」
 お類が、
T「兄さんは、あんたの妹さんをお嫁に欲しいんだッて」
 えッと伊吉、
T「御主人様がおふみを?」
 伊吉返答に困った。
T「そうしたら妾をあんたのお嫁さんに呉れてやるって」
 伊吉困った。
 乳母が日傘持って帰って来た。伊吉それと見て話をやめる。お類が、
T「妹さんと相談しといてね」
 と乳母と共に去る。その前を一人の娘が通り掛った。
 よウ似てるけど、と言った顔で立ち止りました。
T「兄さんじゃ無い?」
 へッと伊吉。
 「おふみか?」
T「何考えてんの?」
 と伊吉、
 「いや何でも無いさ」
 その傍を通り掛かったお侍、結城左久馬(相当大身である)。供の若侍二人を見返って「あの女」と言う。おふみの事である。美人じゃ喃と言った顔で見惚れた。

 先ず最初の小説及び戯曲の映画化私感。小説(若しくは戯曲)の映画化に際して僕は(ひとは知ら無い。私感とあるから僕の考えを書く)その構成をシナリオの構成にする、と云う事を第一に心掛けねばならないと思う。大へんわかりきった事で恐縮ですが、僕なぞ時々此のわかりきった事を失念してとんだ恥を晒します。僕の盤嶽の一生のシナリオは原作に忠実過ぎた為に――原作の構成をその侭シナリオの構成とした為に失敗しました。そのくせ物語の中の数多くの挿話の一つ一つや、一つの挿話から他の挿話へのツナガリ等には相当注意を払ったつもりでしたが、所詮は小刀細工です。あれは、最初の水道樋の挿話を物語の最後にするか、若しくは以後のいくつかの挿話を最初の挿話の中に織り混ぜるか、するのが本当でした。

 近頃、大衆小説を読んであまりこころよく思わないことがある。
 それは、往々にしてその作者が、自作の映画化を企図して書いていると思いなされる場合があるからだ。
 文壇の誰だったかが、
「文学は文学、映画は映画と言う風に別々に進んだ方がいいのじゃないか」
 と言う意味のことを書いていたが、一応頷ける言い分ではあるまいか。
 僕等が文芸家側から求めるものは、在来の映画物語ではなく又シナリオ化された小説でもなく、僕等映画作家に映画製作への強い意欲と興奮を与えてくれ、オリジナルな内容を持った文学作品だ。
 どうかすると、文芸家仲間から、映画作家には自己内容が貧困していると言われる。
 又生活内容の貧困を言われる。